余裕のない日本、エビデンスに基づいた政治を

小林喜光 三菱ケミカルホールディングス会長

新型コロナウイルス対策に追われた今夏の終わりに突然訪れた安倍晋三前首相の辞任には、個人的にも感じ入るものがありましたし、一抹の寂しさを覚えました。

7年8カ月に及んだ第二次安倍政権の初期から、経済財政諮問会議や産業競争力会議といった政府の会議体に民間議員として参加しましたし、2015年から4年間は経済同友会の代表幹事として、豊かな経済社会実現のため、積極的に政策提言も行ってきました。現在も規制改革推進会議の議長や総合科学技術・イノベーション会議の議員を務めています。アベノミクスという大胆な経済政策、あるいは女性活躍や働き方改革の推進といった取り組みに象徴されるように、安倍さんの変革への強い意志によって動き出したものは少なくありません。成長戦略など、すべてが狙い通りの結果を得られた訳ではないにせよ、全力で仕事をした内閣だったことは間違いありません。

これまで数回、安倍さんとゴルフを共にする機会がありました。一国の首相ですから、身辺を警護する人が常に周りにいる訳ですが、皆さんにプレーの合間の休憩中には「ジュースを飲みなよ」と声をかけるなど気配りを欠かしませんでした。半面、プレー中でも日本の安全保障について熱く語る姿は印象的でした。ボールが右に飛べば右翼、左に曲げれば左翼だと冗談を言い合いながらも、心の奥では政治と向き合う真摯な気持ちは消えることはないようでした。

記者会見で辞任の意向を表明する安倍首相(8月28日、首相官邸)

記者会見で辞任の意向を表明する安倍首相(8月28日、首相官邸)

■成長戦略は道半ばに

リーマン・ショックや東日本大震災によって沈没しかかっていた日本経済が、安倍政権下での経済政策「アベノミクス」によって持ち直したことは確かです。大規模な金融緩和や財政出動など一連の施策により、円高、高い法人税率、経済連携協定の遅れなどいわゆる「六重苦」が相当程度解消され、企業の業績や雇用環境の改善につながり、景気回復に道筋をつけました。大企業の収益が増え、賃上げや設備投資を通じて中小企業や地方にも富がしたたり落ちる「トリクルダウン」が理想通り十分に実現できたとはいいきれませんが、インバウンド(訪日外国人)需要の拡大による特に地方での消費増など一定の成果があったとみていいでしょう。

しかし、アベノミクスの第三の矢である成長戦略、その重要な要素である企業の労働生産性の向上については、実現できているとは言えません。DX(デジタルトランスフォーメーション)導入の動きは欧米や中国に大きく遅れたままです。日本企業の大半が世界で戦っていくには規模が小さすぎるのに、再編がなされず、収益性の低い「ゾンビ企業」が生き残って新陳代謝が進みません。アベノミクスの金融政策、財政政策で経済が一息ついている間に、企業は「ポートフォリオトランスフォーメーション」を加速して、将来に向けて潜在的な成長力を高めるべきでしたが、そのシナリオは実現しませんでした。それどころかアベノミクスの成果についてもコロナ禍で剥落しかかっています。

財政赤字の拡大という代償も大きかった。歳出と税収の差を示す折れ線グラフは年ごとに徐々に間隔が広がって「ワニの口」と言われていましたが、今年はコロナ対策の大型補正を組んだことにより口が上にめくれてしまいました。安倍政権の初期に2020年度としていた基礎的財政収支(プライマリーバランス=PB)の黒字化目標は、18年には25年度に先送りされ、コロナ対策の財源を踏まえた直近の内閣府の試算によれば、名目成長率3%、実質成長率2%という高い国内総生産(GDP)の成長を仮定しても29年度にずれ込むそうです。まずコロナ禍を押さえ込むのが最優先ですから、予算措置自体はやむを得ませんが、黒字化への道筋について改めて考えを整理する必要があるでしょう。

■省庁のデジタル化は急務

菅義偉首相を待ち受ける難題は山積しています。コロナの押さえ込みが優先課題ですが、先鋭化した米中の新しい冷戦構造の中での日本の立ち位置も重要です。米国は、テクノロジー分野、例えば次世代通信規格「5G」の構築でファーウェイなど中国企業を完全に排除すべく圧力を強めていますが、どこまで追随するのか。安全保障で米国との同盟を重視しつつ、日本としては隣国である中国と縁を切る訳にはいきません。環境や医療といった人類共通の課題については互いにメリットがある訳ですから、こうした分野で中国との関係を構築することも必要でしょう。ロシアや北朝鮮、韓国との外交問題も含め、複雑化する国際関係を読み解き、その中で存在感を高め、いかに国益を確保していくか、菅政権の外交政策が問われています。

新型コロナ対策の事務処理でもデジタル化の遅れがあらわになった(特別定額給付金の電話相談窓口)

新型コロナ対策の事務処理でもデジタル化の遅れがあらわになった(特別定額給付金の電話相談窓口)

国内に目を向ければ、先に触れた労働生産性と関係しますが、日本のアナログ文化を打破しなければなりません。菅首相は行政のデジタル化を推進する「デジタル庁」を21年に新設する方針を掲げました。

新型コロナ対応で明らかになった行政手続きの非効率さは本当に深刻です。特別定額給付金は、マイナンバーカードを利用したオンライン申請も可能でしたが、普及率が低く、多くの人が郵送での対応となって、給付が大幅に遅れました。各省庁のシステムも、そもそもデジタル化が遅れていることに加え、縦割り主義によって省庁間の連携が進んでいません。

一例ですが、オンラインで会議を開く場合も、ある省庁はZoomを使い、別の省庁はWebex、TeamsやSkypeを使うなどまちまちです。各省庁がシステムをバラバラに設計、調達するため、それぞれが保有しているデータをスムーズに共有できず、省庁間の調整が必要な政策の論議が遅々として進まない。

デジタル庁が司令塔となって、各省庁や地方自治体等の間でスムーズにデータをやりとりできるようにし、行政手続き全般の迅速化を図って頂きたいと思います。豊かで安全な社会を構築するためには、デジタル技術とデータ活用が欠かせません。

■科学の知見で政策立案

これからの政治に必要なのはサイエンス(科学)の素養だと思います。21世紀は、人工知能(AI)や5G、バイオ、量子コンピューティングなどの時代です。政策を立案する政治家や官僚がこうした将来の科学技術に対する知見を深める必要があります。正しい知識や理解がなければ必要な政策も生まれないし、スピーディーで的確な政治判断もできません。

規制改革推進会議であいさつする菅首相(10月7日、首相官邸、左は小林氏)

規制改革推進会議であいさつする菅首相(10月7日、首相官邸、左は小林氏)

特に環境問題、それにひもづくエネルギー政策など人類にとって避けては通れない社会課題に対して、定性的な感情論ではなく、サイエンスリテラシーを持った人が、データ、エビデンス(証拠)をベースにした冷静な政策決定を行う必要があります。いわゆる「EBPM(証拠に基づく政策立案)」と呼ばれる手法です。あるいはもっとその考えを進化させて、科学的見地に裏付けられた予測に基づく政策作り、すなわち「FBPM(Forecast-based Policy Making)」をとり入れていくことも重要となることでしょう。

菅義偉首相が2050年までに温暖化ガス排出を実質ゼロにすると宣言しましたが、日本の方向性を示すものとして歓迎したい。今後の日本のエネルギーミックスのあり方は、経済や国民の生活を大きく変える可能性があり、まさに証拠と科学に基づく政策が求められます。東日本大震災での福島第一原発の事故もあり、原子力発電に対する国民の忌避感は非常に大きい。その声は尊重しなければならないですし、政策面でも脱原発を掲げるグループもあります。太陽光や風力などで電力をすべて賄えれば理想的ですが、国土の狭い日本で配送電の設備投資を含めたコストも踏まえ、近々すべて再生可能エネルギーに移行できるかわかりません。

原子力についても、事故で発生しうる損害も含めて中立的にコストを算出してフェアに比較すべきです。その結果として、新設はしないとしても、これから20~30年稼働する寿命がある既存の設備があるならば、安全性を担保した上で稼働を再開するという選択肢もあるかもしれません。

重要な政策だからこそ、根拠をもって科学的に判断する。ムードで決めれば、過去と同じ過ちを繰り返すことになります。しかしもう過ちが許されるほどの余裕は日本にはないのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です